ザリガニを釣れ!

漫画家 大童澄瞳の公式ブログです。告知や日記など

「自信の無さ」について。あるいは「自信」について

 

ワシは昔から自分に自信がなかった。

 

何度も言ってるし、知って欲しい気持ちがあるからこそいつも言ってるのだけど、それでも繰り返し自分を語るのは恥ずかしい行為だと理由なく思ってる。多分他人の目線、つまり「自分語りマンだ」と思われるのではないかという恐怖なのだが、自分語りマンの恥ずかしさとは「思慮の浅さが露呈している自分語り」にあるのだ。

 

今回は自分の頭の良さに自信が無いという話しだ。

 

ワシは学校の勉強はダメだし運動もダメ、小1の頃から小心者だった。

当時のエピソードは省略する。

 

不登校になってから、自分は同世代と比べてバカではないのに(勉強は出来ないが)なぜ同世代に精神的に負けているのかと考え続けた。劣等感を抱く反面「俺は頭がいいはずなのに、勉強と運動が出来ないために認められない」と優等感に基づく怒りを持っていた、と思っていたが、今改めて思うと、単純に劣等感といじめの中で敵意を抱くようになった結果かもしれない。典型的なハリウッド型悪役のようだ。

 

さて、ワシはツイッターなどで頻繁にビッグマウスになることがあるが、あれは自分を改造する為に始めたことなのだ。

 

遡ること8年くらい前(もっと前かも知れない)、18歳くらいのワシの自信のなさは昔と比べれば多少は改善していたが そのレベルはまだまだ低く、いよいよ社会生活が目前に迫る中で大きな障壁となっていた。

いよいよ困った私は、今までも繰り返し行われてきた親と何度も話すというカウンセリングにより、1つの結論にたどり着いた。

「そもそも『自信の無さ』を深掘りすると、そこにはには明確な根拠はなく、自信がある人間がもつ自信も同様に根拠のない自信である」

 

ワシはそこで変わった。ひとまずあらゆる局面で表面的に自信を持とうと思ったのだ。例えば、レジでポイントカードを作る時、ワシは自分の住所も書けないし自分の携帯電話の電話番号も知らず、自分の名前も漢字が難しいから描くのが遅い。そういう中でいつも「店員は自分の事をどう思ってるんだろうか。僕は発達障害があるので字がなかなか書けません。バカだと思われるだろうか。普通の人みたいにスラスラ字を書かなきゃ。後ろに会計を待つ列が出来てる。やばい。手が震える」と思っていたのだが、そこを全て「うるせえ、俺は障害者だ。」と図々しいマインドで乗り切る事にした。

そして「こんな服でおかしくないだろうか。ユニクロで買ったから世間と完全にずれてるわけじゃないだろうが、着方が間違ってたりしないだろうか。今あの人こっち見たな」などと思うのをやめ「もっとダセエ奴はゴマンといるし、俺は人の服なんて気にした事ないから他人も俺のことなんか気にしない」と思うようにした。人と話す時も同様に自信満々に話し、相手がどう思おうが関係ないと言わんばかりに自分の意見を言ったりした。

するとどうだろうか「案外普通の人というのはバカなのだ」と思えてきたのだ。口から出まかせでも感心してくれるし、バカにされなくなったと感じた。

(しかし恋愛とは難しいもので、同世代に対する恐怖心は残ったままで、かなり年下で自分が上位に立てる相手か、かなり年上で自分がペットになれるような相手でないと怖いという気持ちはずっとあった。)

そうして獲得した自信は「若くして突然のスカウトにより漫画家デビュー、いきなり大賞受賞」などによってある程度実態を伴う自信へと繋がってきたのだが・・・

 

今、その増長した自信が恥ずかしくてたまらない状態になっているのだ。

 

ワシは今まで何度も「変わろう」と思って変わった来た人間で、自身の獲得もそうだし、絵を描き始めたのも「勉強も運動もダメだから、何か目に見える特技を持とう」と思ったからだ。

ワシは庭師のバイトのような事を小さい頃からしていて「学問や教養による生も良いが、体を使った労働と生も素晴らしいものだ」と思っていたので「作家になろうが土木作業員になろうが、人生に幸せはあり、堕ちることはない。人間は変わるし、どう変わってもよいのだ」と信じているので、常に己の変化と向かいあおうとし、新しい考えに触れた時は自分を変えようとする。

だが、どうもその変化を受け入れる生き方は物凄く体力を使うようだ。いや、わかってたことだけど。

「こうだ」と思って頭を固くして生きるのは楽なんだよなあ・・・わかってんだけど・・・

 

頭がいい人への憧れが強い。

 

漫画家になって徐々にわかってくるのは、本当に頭がいい人間しかいないということだ。それも半端じゃなくキレモノ。編集者も漫画家もその周辺もみんな頭がいい。学の有無というより教養と知性がやばいのだ。ツイッターで「にゃーん」とか「おっぱい」とか言ってる作家こそ危険だ。あいつらはバケモノ級の知性を持ってる。バカみたいな事をツイッターで言っても真の自分に傷が付かないとわきまえているのだ。

ワシにはそんなことできない。バカな事を言ってる時はバカだし、頭良さげな事を言ってる時もバカなのだ。きっと頭のいい人達に「あーこいつバカなんだな」と思われてるに違いない。

偏差値の低い中で天才を気取って生きてきたワシだ。天才を演じて虚像に飲み込まれたカスなのだ。まさに井の中のオタマジャクシだ。

 

知ってるさ、本当は天才達もワシの事なんて気にしてなくて、案外「あーこの人頭いいな」くらい思っているのだろう。そう、案外そんなもんなのだ。自分で思うより他人の頭は親切だ。

でも、それでもワシは最近よく思うのだ。「ワシはまだ人間的に未熟で、大人からは笑われるような人間なのだろうな」と。

 

もっと成熟した精神を持とうと挑んでいる今、枝先から蹴り出して拠り所もなく、落ちているのか飛んでいるのかも、そのまま地面まで落ちるのか途中から上昇するのかも分からず目も開いていない状態なのだ。

 

この世界には頭のいい人間が多過ぎた。「根拠の無い自信」では生きていけない世界に飛び込んでしまったのだ。成果でもなんでもない、ただ純粋な知性!!!(あと教養)これが無ければ生きていけない!!!

 

はて、なぜだろうか。

 

なぜそんなものが無いと生きていけないのだろう。

 

 

 

漫画家になって知った言葉

前置き

私は漫画家になるにあたって「漫画業界の正体」とは言わないまでも何か一般社会に持ち帰ろうと思って小学館に足を向けた。

その手前、(大きな意味での)業界用語的なものでもちょいちょい書き留めておこうかと思うのであった。

ワシが知らないというだけで一般的な言葉もあるかもしれない。

 

1「〇末売り」(~まつうり)

意味:「月末に売られる」という意味。

マンガ雑誌は「〇月号」と冠した雑誌が店頭で古く見られないよう、発売時期より少し先の月を雑誌に書く。

例えば”4月”に売られる雑誌には「5月号」と書かれる。

加えて発売日は”3月27日”だったりする。

つまり3月に5月号が売られるわけだから、読者もさることながら編集部も作家も混乱するのだ。

そこで作られた言葉(多分)が「〇末売り」である。

例えば「3末売り(さんまつうり)の号で~」と言えば「三月末に売られる号で」と理解できるが、ようするに5月号のことなんだな。

 

ちなみにTV業界でも「3末放送」とかそういう「〇末(まつ)」という言葉があるらしい。収録日と放送日が離れてる状態で季節を意識した内容にするからですな。

 

 

『映像研』の性別や国籍についてのメモを見つけた、

 

『映像研には手を出すな!』に関して一年ほど前に書いたメモが見つかった。

その時の感情は少し高ぶっていたようで、なにか激しいものが感ぜられる分になっているがそこは一つご了承頂きたい。

 

改めてメモを読んだところ、その主張はまだ変わっていないので ここに文章供養の意を込めて公開する。

以下はそのメモ↓

 

 

‪身体的特徴が女だからって女とは限らんでしょう。

中身は男ですと言ってるわけじゃないですよ。

どっちでもどうでもいいから女3人でもいいでしょっていうことであり、さらに身体的特徴が女であって、自己認識も概ね女であるからと言って「100%女」なんて人はこの世の中にいないでしょう。

そういう意味で、性別について深く考えて、部員の構成を男男女にするとか女中性男にするとかそういう行為には何も意味がなく、「キャラクター」は性格や行動によっては描かれるべきでなんすよ。

何度も言ってるように、多国籍な学校が自然だと思った事はありますが、思想的に強くおもっているわけではなく、「家には屋根があるのが自然だ」という感情と同様であり、その多国籍の自然さは僕が通っていた市立小学校に色んな国籍・宗教の子供がいたからに過ぎず、別に何の思想もありません。

どうもまだみんな、性別とか国籍とか宗教を見ると「差」「違い」「協調」「平和」とか色んなワードを連想するみたいですけど、そんなんどうでもいいんですよ。

抽象化(「抽象」の意味を調べてね)して理解せずに、境界線のないぼんやりしたものだって事で理解できませんか。‬

 

‪僕が作中で同性同士の恋愛を描いたとしても、それは多分ただの恋愛であって「同性愛」というカテゴリにすらならないんですよ。

僕はキャラクターを性別によってかき分ける能力がないとも言える。‬

 

 

メモ終

以上。

 

 

 

『映像研には手を出すな!』未収録あとがき

 

あとがきの為に書いていた文章であるが、結局提出もせずボツにしたのだ。

以下はその文章。

 

 

飼育が比較的容易であるとされるメダカだが、飼い始めたばかりの頃は勝手がわからずかなりの数を死に追いやってしまって、生き物を生かすのはこんなにも大変なことなのだと、生きとし生けるものの神秘性と人工的に生命をコントロールする難しさを知った。

一方で自分自身の命は「飯を食わなきゃ俺は死ぬ」というぐらいの知識しか持ち合わせていないない身でありながら、安定して(しかも大童澄瞳という人間の手によって人工的に)生かされているわけで、明文化されていない生存術・経験則というものも侮れない。

人類は経験則を盾に死をかいくぐり生きてきたのだ。

さて、アニメだのマンガだのに足を突っ込んだ少年少女諸君等の大半はオリジナルストーリーの妄想にいそしむ時期があるだろうと思うが、僕も例外にもれず中学生の時分にはそのような日々を送っていた。

学校に行かずダラダラとアニメだの映画だのマンガだのを観、ワイドショーを延々観続ける日々の中で、たまに自転車で出かけては青春劇の主人公の如く野っ原にひっくり返って「気の遠くなる様な時間を生きてきた巨木は、溜め込んだ情報を異物として吐き出すのだ。そしてその異物は美少女の形なのだ。」などと考えつつ、自分が野っ原にひっくり返って青空を眺めている状態とその経験もいずれ作品(何の媒体かは知らんが)に活かそうと考えていた。

それから幾年月、漫画連載に興味はないかと声をかけられた時も、これは面白い経験になりそうだぞ、何かのネタになるぞと思った。

単行本が出版されるという今もまだ「単行本が出版される経験は何の役に立つだろうか」と考えているのだが、今語った僕の人生の重要な経験はこの"あとがき"の為にあったのだろうかと、悩んで眠れぬ日々は何の役にたつだろうか。

メダカは生きていて、数も増えつつある暮れのことである。

 

 

 

 

手慣らしにキーを叩く

 単行本第1集が発売されたというのになぜブログを更新しないのだ!!

 

ブログで書くことが見つからないという、「ネタがない」という感覚が久しぶりだ。

「単行本第1集発売中」というドでかいネタがあるのに

選択範囲にリンクを挿入する作業など、懐かしさでワクワクしはじめる。

 

究極映像研究所様のブログで『映像研には手を出すな!』を紹介していただいた中で、当ブログ「ザリガニを釣れ!」へのリンクが貼られていまして

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